デカルトの思考について----熊野純彦『西洋哲学史』(下)を反復して

これだけは確かだ。このことだけは疑うことができない。人は何かを拠りどころにして 生きているが、その生の根拠と考えることがらは本当に確実なものだといえるのだろうか。 哲学とは知を愛し、求めることである。そして、そこでもとめられている知は真の確実な知でなければならない。それでは、疑うことのできない知とはいったいどのようなものなのであろうか。

 

 デカルトは『方法序説』の中で次のことを述べている。まず、それぞれのことがらについて真理はただひとつしか存在しないこと。次に、その真理は誰にとっても等しく同じ真 理であること。デカルトは数学の諸問題を解いているときこれを発見したとされている。 デカルトにとって数学が格別な意味を持つのは、一つの問題について真理がただ一つしか 存在しないこと。次に、その真理は誰にとっても等しく同じ真理であること。言いかえると、ひとつの問題について真理がただひとつであり、またどの人間にとっても妥当すると思われる確実性を有することがデカルトにとって重要だったのである。つまり、問題に対 する解の平等性と単一性を有する数学はデカルトにとってひとまず疑うことのできない知だったのである。

 そして、このことは後の草稿『精神指導の規則』(以下『規則』)で強調して表されてい る。いっさいのことがらについて「確固とした真の判断」を下すように、つまりそのような精神を導くことを目標にしてこの論考は書かれているのであるが、この中で確実な知とは「算術(計算)と幾何学(図形の学問)だけ」であるとデカルトは言明している。

  しかしデカルトは何故「確固とした真の判断」を下すのに、ここまで数学を重要視したのであろうか。それは数学が第一原理(公理)とそこからの理性的推論によって成り立っているからである。そして、それは「直観」と「演繹」という方法、思考作用によって作り上げられているのである。

  まず『規則』のデカルトによれば「ものの認識に到達するには、経験と演繹の二つの道」 があるとする。つまり、知というのは経験と演繹によって導き出されるとデカルトは言っている。しかし、誰でも経験していると思うが、経験的な知というのは、ひとを時に欺くものである。一方、演繹、他のものから或るものを純粋に推論することは初めが誤っていなければ、決して誤ることがない。センター試験の数学第一問、第一答が誤っていないのであれば、正しい道筋さえ知っていれば、第二答が誤りうるはずがない。また、他にあやまりを恐れずに使用できる知性の作用は「直観」である。「演繹」は、単に、確実に認識されたものから、他の或るものを導き出すときに関わるだけであって、第一原理である「確実に認識された或るもの」を与えるわけではない。つまり、推論が出発すべきである「原理」を与えるわけではない。そして、この「第一原理」を与える作用こそ「直観」であると言っている。

 デカルトによると「直観」とは純粋で注意深い精神の把握、それも理解するところについて何の疑いも残さないほどに容易で判明な把握であるとされる。しかも、言い換えると、 それは「理性の光」によってだけ生まれ、演繹よりも単純であり、だからいっそう確実で純粋で疑い得ない把握である。つまり、「直観」は決して疑うことのできない第一のものを与えるそれであり、それは誰にでも容易に、それも判明に行うことのできる作用なのである。

 そして、この後、デカルトは「懐疑」という方法を取り入れることになるのだが、この 「直観」と「演繹」を真理の源泉とする発想はデカルトの思考の基本線であり続けた。むしろ、この後、デカルトは「明証的に真とみとめることなしには、どのようなことがらも真であるとは受け取らない」ということを第一の原理として懐疑のみちゆきに足を踏み入れることになるのだが、それはあくまで「じぶんに確証を与える」ためにそうするのであった。言い換えると、どのような懐疑によっても揺るがすことのできない第一原理を求めるために、あえてデカルトは「懐疑」という方法を使うのである。そのため、デカルトのこの「懐疑」は「方法的懐疑」と呼ばれ、あくまで第一原理の補強のため、真理を考え出す道ゆきとして行われるのである。

  そして、こうして数学における公理(第一原理)も「方法的懐疑」によって絶対的な確実性をはぎとられることになる。というのも、公理は第一原理なので証明によらず与えられるが、それは「合意」によって採用されているものとして考えられ、したがって、単なる「合意」であるなら、それは人間たち people 自身の「おもいこみ」によって作り上げられているものであると考えられるからである。実際、モンテーニュはこのように数学の公理(第一原理)に対して疑いを向けていた。「是認された基礎の上に、ひとが欲するものを 打ち立てるのはひどくたやすい」(『エセー』)そして「神が原理を人間に啓示しなかったならば、人間にとって原理などありえない」(『エセー』)とモンテーニュは考える。つまり、 公理とは神が人間一人それぞれに啓示することによって与えられ、神は誰にも平等であるので、その啓示された公理はすべて「同じ」ものになり、もちろん「合意」に達しうる。 しかし、もしその神の啓示を疑うとするなら、人間一人ひとりそれぞれに与えられる「公理」そしてその「合意」も疑いうるものになってしまう。なぜなら、神の啓示でないのであれば、平等に「同じ」ことを思うことを真だとみなすことはないはずであり、「公理」は 「公理」というより、ただ一人の人間の「おもいこみ」「妄想」になってしまうのであり「公理」足りえないからである。だから、神の啓示を疑うことは、要するに、「公理」自身も、 その「合意」疑わざるをえず、このふたつが偽であるなら、数学のすべては「夢と煙に過ぎない」ものになってしまうのである。

  こうなってしまっては、公理、人々一般に「合意」として疑いえないものとしてある公理が疑いうるものとなってしまっては、数学者は哲学者になる必要がある。なぜなら、人々に公理の合意そのものを与える神それ自身を考えなければならなくなるからである。

  このように、直観として与えられるべき公理は疑うことが可能とされ、さらに後に述べ る「私を欺く悪霊」によって、「演繹」ですらも疑うことが可能であるとされる。したがって、デカルトの「真理」「疑うことのできない知」を見つけるために行われる重要な思考作用二つが当てにならないものとされてしまうのである。 さて、それでは本当にそれ自体として疑うことのできない第一原理は存在しないのであろうか。すべて疑いうるものとなっていまい、「疑いのない知」に到達することは出来なくなってしまうのであろうか。これまで述べてきたことは、単に数学的な真理、公理が疑い 可能なだけであり、数学的な命題とは別のところに出発点を求める必要があるのではないか。そして、そのうえで、いっさいの真理を神によって裏うちするべきなのではないか。 第一原理(公理)を与えるのが、神の啓示であるなら、神は不可偽の真理すらも創造したのではないか。

  そして、デカルトは実際にそう考えた。デカルトは「形而上学的な真理」、第一原理の真理は、幾何学の公理(第一原理)よりも数学の公理よりも明晰な仕方で論証、明示されるべきものであり、数学的な真理、「永遠的な真理」とされているものも「神によって制定され、神に完全に依存している」と考えていたのである。だから、デカルトは神が何も創造しなかった場合でも、現在と同様に実在的な空間が存在するかという問題に対して、空間は存在しなく、それどころか、全体は部分よりも大きいという公理すらも、まったく真理 ではないと述べることになる。そして、第一原理の真理とは「私は考える。ゆえに、私は 存在する」ego cogito, ergo ego sum.とデカルトは考えることになるのだが、第一原理の真理から導出された真理、私が見つけた真理、例えば数学の問題を解いているときに見つけ た/認識した公理や定理は、決して第一原理としての「私」ego が作ったものではなく、 絶対的な神が創造したものを私が確かめるという仕方で、見つけるとするのである。言いかえると、「直観」としての思考作用は、まず第一に、私 ego を見つける。そして、その 直観を元手にして、「演繹」という思考作用を介して、私は真理を生産する。しかし、その 真理は決して私が作ったものであるのではなく、永遠にして絶対の神が創ったものを単に私がみるだけと考えるのである。こうして、デカルトはどうやっても疑うことの出来ない知である「私」ego を発見し、その私が見つける真理、知は「私」によって作られたものではなく、絶対的な神が創造したものだと考え、したがって、私以外の疑うことの出来ない 知が存在するのであれば、神もまた存在することになるとして考えるに至ったのである。

  このように、デカルト形而上学的な真理として、疑うことの出来ない私、絶対的な神 を知ることになるのだが、この後の『方法序説』、主著である『省察』において、彼はこの道ゆきの次第を書いている。「若いころ、私はどれほど多くの偽なるものを真なるものとしてみとめていたか、そののち私がその上に立てたもののいっさいがどれほど疑わしいものであるか、そのことをはかりしれず、考えるに至った。また、そうであるかぎり、諸学も また偽なるものの上に立っている限り、疑わしいものだと考えざるを得ない。だから、学 や知が揺るぎない不変なものを確立しようと欲するなら、一生に一度はいっさいを根底から覆して、第一の土台から新たに開始しなければならない。」(『省察』、冒頭、要約)

  デカルトがいっさいを根底から覆す必要があるのは「第一の土台」から、第一原理からすべてを再開させるためである。「すこしでも疑念をいだくことができるものは、すべて絶対的な偽としてしりぞける」ことによって、彼は真理を見つけるための道として、方法的に懐疑を行うのだが、それはなぜなら、そこから導出すれば、すべて真になるような第一原理をデカルトは求めているからだ。したがって、デカルトの思考は「知っているものは知る必要はなく、まったく知られていないものは全く知らないのだから知ることはできない」という「探求のアポリア」に陥ることはない。というのも、デカルトは「すでに知っているもの」を本当に「真なるもの」かを試すことによって、それが第一原理(公理)足りうるかを探求しているからだ。つまり、探求されているのは「私の信のうちにある或るもの」なのである。そしてまた、何かを偽とみなす根拠は真でなければならない。だから、 根拠自体を偽であるとみなすことはできない。デカルトは、実際、私が抱いている「おも いこみ」が偽である理由は挙げているが、すべてが偽であるとは主張してはいない。つま り、偽を偽であるとみなす理性自身のはたらきは残され、何かを肯定し、定立する理性の機能だけは疑いうるもの、偽であるとは考えていない。

  それでは、デカルトにとって、疑いうるものというのは、いったい何なのだろうか。まず、疑われるものは「感覚」である。「これまで真理であるとみとめてきたものは、どれも みな感覚から、あるいは、感覚を介して受け取ったのであった」(『省察』)そして、外界は 感覚を介して与えられるのだから、外界の存在もまた疑いうる。では、「私がここに存在し ている」という事実 fact はどうか。コーヒーを飲み、タバコを吸っているというその知、 その事実はどうか。他者が見ても、私が見ても「合意」できるこれはどうか。しかし、映 画『マトリックス』のように、このすべてが夢であるということは反駁できない。つまり、 私に対する客観的な事実 objective fact 「私がここにこのように存在している」という知、 事実でさえも疑いうることができる。しかし、すべてが夢であっても、「三角形は三つの角を持っている」「1+1=2」であることは、公理から、原理から導き出されるのだから、 そう決まっているのだから、夢かどうかにかかわらず真である。しかし、この「永遠的な真理」も「悪意ある、しかもこの上なく有力でずるい霊」が私を凌駕して真であると信じさせているのかもしれない。つまり、私が持っている真であると思われる「観念」ですらも、疑いを持ちうる。では、すべて幻なのではないか。すべて、偽なのではないか。しかしながら、私がこう考えている、私が何かと関わりをもち、また、逆に「観念」を真であると悪意ある霊が説得しているかぎり、「私」は存在している。「霊が私を欺くなら、私は存在する。そして、できるだけなんどでも私を欺けばよい。そして、そうするたびごとに 私は欺かれる対象として存在しなければならないから、私はますます存在する。逆に、私がなにものかと私が考えるであろう間は、私は無であることはできない。したがって、「私は在る。私は存在する。」という命題は、私が言表し、欺かれている観念か真なる観念を精神によって把握しているかぎり、そのたびごとに、必然的に真である。」(『省察』、第二テ ーゼ、注釈要約)とデカルトは言う。

  そして、この「私」とは、けれども何なのだろうか。まず、これは感覚するだけの私ではない。というのも、感覚は感覚するその瞬間しか存在しないのであって、それが消えうせてしまったら、感覚としての私も一緒に消えうせる。だから、私は感覚なのではない。 しかし、「感覚」を「疑い、理解し、肯定し、否定し、意欲し、意欲せず、想像する」とき、 私は「思考するもの」res cogitans として存在する。つまり、感覚しているだけの私をつきはなし、その私を私として思考するときにこそ、私は私として存在する。したがって、「思考するもの」である私は感覚によってはとらえられない。むしろ、「感覚する私」を対象として措定したときにこそ、思考する私が直接に、その私を直観する。

  では、物体 corpus はどうなのであろうか。物体は感覚によってもちろん与えられる。 デカルトは「蜜ろう」というものを使って物体について考える。「蜜ろう」は熱を与えて、 溶かすとすべて性質 quality が変わってしまう「ろう」である。私たちは匂い、色、形を 認識することが出来るがそれらは熱すればすべて移ろい変わってしまう。しかし、それでもたしかに蜜ろうそのものが存在していることを私たちは認識できる。つまり、「感覚」がとらえたものを超えて、存続しているものを考えることができるのである。これをデカルトは「延長するもの」res extensa と考える。つまり、「物体」とは「延長」、空間的な広がりであり、その究極の本性は大、小が量りうることができる「量」quantity であるとするのである。したがって、まとめると「蜜ろう」の本性は「感覚」によっては与えられない。 それはただ「精神によって知られる」。だから、「延長するもの」は「精神」あるいは「知性」によってのみとらえられるのだから、私の精神自身よりも容易、かつ、明証的にとらえられるものはなにもない。物体が「感覚」に与える質的な自然は断じて真に存在するものなのではなく、「知性」が洞察するもの、「知性」が「量」として考えるもののみが真に存在するとデカルトは考えることになるのである。

  したがってここから、デカルト形而上学は「思考するもの」と「延長するもの」とのあいだに、「実在的区別」を設定する。言い換えると、「延長するもの」は「思考するもの」 の「知性」という思考作用によって存在しうるようになるのであり、「思考するもの」と「延長するもの」は絶対的に区別できるものとして考えることになるのである。一方、デカルトは「思考するもの」と「延長するもの」、心(精神)と身体(物体)の「実体的結合」に ついてなにも疑いを持っていなかった。つまり、心は身体と絶対的に区別できるが、それ らがしっかりと「繋がっている」ことについては単純に「繋がっている」としか考えていなかった。その上「精神は非物体的であるが、身体を駆動することができる」と表明して、 精神の優越性を何の理由もなく策定し、心(精神)と身体の間に絶対的差異は存在するが、 繋がっており、そして精神が優位であることは彼にとっては自明的に考えられるのだった。

  したがって、この単純な「両者の結合」と、精神の優越性、そして何の原因もなく存在 している「精神」という実体をデカルトが仮設していると喝破したスピノザは、デカルト が「思考するもの」(心)と「延長するもの」(身体)のそれぞれの存在の原因性を、両者が影響しあい両者が原因となりうると考えるのではなく、それぞれ神が創ったものとしているとしてそれを非難した。 しかし、デカルトは「思考するもの」と「延長するもの」が神によって弁別され、独立に存在していることに神の援助を求めた。つまり、「思考するもの」と「延長するもの」が 別々の実体として存在していることが彼にとって重要だったのである。そして、それはこ の「二つの実体」が神によって別々に存在させられていることが重要であるとデカルトが考えていたに他ならない。したがって、このためにデカルトは「神の力によって身体なき精神が存在することも可能だし、精神なき身体が存在することも可能である」と言明することが出来ている。それどころか、「思考するもの」としての私の存在が神の存在を前提に していることを彼自身が要請してさえもいるのである。それでは一体デカルトの言う「神」、「思考するもの」と「延長するもの」を実在的に区別させる神、そして、「思考するもの」それ自体を実体として存在させる神とはいったいなんなのであろうか。それを最後に考えてみたいと思う。

  ここでふたたび思考する私であるコギト(cogito)に立ち返って考えてみる。まず、私が 「思考するもの」res cogitans であるのは「私にとって確実」である。この認識の内には 「明晰で判明な知」以外はなにもふくまれていない。だから、第一原理(「考える私」)が 真なのだから、そこに含まれている「明晰な判明な知」は真なるものであるといっていい ように思われる。つまり、「私が明晰判明に知るすべてのものは真である。」そして、「明晰な知」とは「注意する精神に現前して、あらわであるもの」であり、「判明な知」とは「他のいっさいの知からは分離して区別されているもの」である。そして、この明晰・判明な知を可能にするものは、明晰・判明な「観念」である。このように、明晰・判明な知を可能にする観念をデカルトは「本有観念」と呼ぶ。 そして、物体/身体 corpus について明晰・判明に知ることが出来るのは「延長するも の」res extensa であり、その限定によって生じる「かたち」「位置」「運動」である。そし て、この限定を行うことができるものは「観念」である。そして、その「観念」は「私自身の観念から引き出されることが可能であったように思われる。」つまり、「物体の観念が 示すもの」は私が持っている観念をうわまわっていない。物体の観念の原因は私でありうる。しかしながら、私のうちにある或る観念は「私自身がその観念の原因ではありえない」 したがって「そのような観念の原因であるものは必然的に存在する。」デカルトによると、 この私自身の中にある観念を作り出したもの、それが「神の観念」である。デカルトの時代、神とは「ある無限で、全知で、全能な」実体と考えられるのが普通であった。つまり、 全知ですべてを知っているのだから、有限な私が知っている観念も、神が創りだし、神が 知っているわけである。したがって、神は必然的に存在するとデカルトは結論付ける。

  その上、「私の生に属するすべての時間は、その部分が他のどの部分にもまったく依存しない無数の部分へと分割される。そして、私が少し前に存在したことからは私が今存在していることは帰結できない。したがって、この瞬間にある原因が私をもう一度創造しないかぎり、私が存在することは出来ない。」(『省察』、31段落、要約)つまり、「思考するもの」である私がいまここに存在することが出来るのは私の過去が原因なのではなく、神が原因であるとデカルトは考えるのである。そして、過去の私と今の私を連続的に結ぶもの、それもまた神が原因であると彼は考えるのである。つまり、神のみが時間の連続性を創出しうるのである。

  したがってまとめると、私の存在は私が創り出したのではなく、きのうの私が今の私を作り出したわけでもない。そして今、私が存在するからといって、明日も私が存在するわけではない。そのかぎりにおいて、私を連続的に存在させるのは、無限に超越した神がいるからである。これが「連続創造説」である。神以外のすべてのものは「その存在を神の力に依存せざるを得ず、神を欠いてほんの一瞬も存在できない。」というわけである。

  この「連続創造説」は「ものを存在へと産出するのが神の意志による」と語っていたトマス・アクイナスのスコラ哲学の伝統にさかのぼることができる。しかし、スコラ哲学の 強い批判者だったといわれるデカルトにおいても「永遠的真理」(数学的真理)も、「物体」 そのものも、そして「思考するもの」も、「私」も創造することが出来たデカルトの神もとりわけ強力な神であったことは間違いない。物理学史上では、デカルトは「同じ運動をし続ける物体は、ずっと同じ運動をし続ける」という「慣性の法則」を原理として定立した 人物として考えられるが、この慣性もまた、神が連続してその意志をたもっているからだと彼が考えていたからにほかならない。

 そして、パスカルが指摘するように、アウグスティヌスデカルトの差異は「私は考える。ゆえに、私が存在する」というテーゼが「物体」の、「自然」の原理をも与えるもので あったことにある。つまり、アウグスティヌスは「私は考える。ゆえに、私は存在する」 とは考えていたけれど、それは単に私だけを存在させるにとどまるものだと考えていた一方で、デカルトは「私が存在し、その私自身が自然の真理を生産し、そしてその原理を以 て自然を眺めうる」と考えていたということだ。言いかえると、アウグスティヌスは「私」 なしでも世界の真理は存在すると考えていたかもしれないが、デカルトは「私」なしでは 世界の真理は生産されないと考えていたかもしれない。この意味で、デカルトは「私」と いう概念を世界にとって不可欠なものとして産出した哲学者といえるかもしれない。

 


※ ちなみに、このレポートは表題にもあるように、熊野純彦『西洋哲学史』(2006、 岩波文庫)のP2~P20、第一章「自己への根底へ」をまるまま反復した(パクッた) ものである。したがって、デカルトのレポート(報告)であるとともに、この本のレポ ート(報告)と言える。それにより、勿論、上記の文章で判明・明晰でない部分があるとすれば、それはこの文章の筆者によるものだが、ほとんどの文章の構成はこの熊野のものによるので、判明でない部分をこの文章の筆者以外に問い合わせるとすれば、この本にまず問い合わせるべきであると考える。